![]()
今の自分の気持ち
by tak-newcentury21 カテゴリ
以前の記事
2011年 11月
2011年 05月 2010年 07月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 お気に入りブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
ネームカード
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
2011年 11月 24日
昭和3年生まれの兄(昭和25年死去)の小学校同級生から最近届いた手紙の一部を紹介することにより、この年代の人達が、戦時中の苦労を乗り越えいかに戦後の日本復興のパワーとなっていったのか、その一旦を伺い知ることができます。ちなみにカシオ計算機の樫尾和雄社長もこの小学校の同期生です。(以下その手紙の一部を抜粋) 私は戦中派、国家主義の時代の教育を受け、現在もその延長線上にあります。本当のところ学校の教室で学んだのは、都立航空工業学校3年生の一学期ぐらいまでです。学校の校庭や荒川の河川敷で『さつま芋・じゃが芋』の食糧生産。近くの軍事工場や昭和飛行機の生産現場で働き、時には工員寮に合宿して、平日10時間、交代制の徹夜勤務もあり、戦争に勝つために一生懸命はたらきました。 海軍の双発輸送機を監査官の将校と技術者の指導の下で、機体の組み立て、リベット打ち、治具の製作、ベニヤ板への原寸図かき等、15,6歳の中学生と女学生が蟻のようにむらがって、手作業でプロペラ機の機体(ジュラルミン板)を組み上げ、それが毎週一度工場内の滑走路から戦場へ飛んでいくのです。ちょっと信じられない光景です。 昭和20年3月に5年制の学校が4年の短縮卒業(兄も早稲田実業を4年で卒業)となり、5年生・4年生の二年度の生徒が同時に学校を出たのです。昭和19年12月に江田島の兵学校予科生の最終試験に行く途中、清水駅あたりで、東海大地震に遭遇したのですが、列車は奇跡的にも転覆しませんでした。 前回の予備試験に引き続き、再度身体検査・身上調査・学科試験が行われ、数日江田島の生活をした後、不合格となりました。呉軍港でははじめてレイテ出撃前の戦艦大和を間じかに見ました。小型の海軍舟艇で大和の浮かぶ海上から見上げる巨大戦艦は光り輝いて見えました。 80歳を過ぎても当時のことは鮮明に覚えています。学生ながら、何れは米軍と戦って死ぬものと覚悟していました。江田島から戻って直ぐに山科工業専門学校の入学試験を受け、幸いにも合格。しかし教室での授業は殆どなく、甲府市内の軍事工場で海軍の99式艦上爆撃機の脚を作る会社に動員となりました。その後間もなく8月15日の終戦を迎えたのです。 2011年 05月 04日
あなたのふる里はと、聞かれるたびに、その答えに戸惑ってしまう。先ずは出生地でもあり現在も住んでいる大阪府岬町。次に三歳から小学三年夏まですごした東京ですが、ここに住んでたゆえに、政府の強制で学童集団疎開を余儀なくされた福島県も、私にとっては大切な心のふる里なのです。
大都会から自然豊かな福島県(信夫郡土湯村ー現福島市土湯温泉町)へと、これまでの生活環境が一変してしまう経験しました。特に一日が始まる朝の洗顔を、宿舎の近くを流れる清流でしたことは、今でも顔を洗う際にときどき思い出します。 さて東日本大震災後、天皇、皇后両陛下が宮城県三陸町を訪問、被災者を見舞われました。両陛下が東北の被災地に入られたのは初めて。「心に痛みを負った子どももいるでしょうね」、「子どもたちのために頑張ってください」などとはげまされました。 両陛下は福島県には足を運ばれていませんが、この記事をみて67年前の昭和19年、当時の皇后陛下から賜った歌を思い出しまた。 皇后宮御歌 疎開児童のうへを思ひて つきの世をせおふへき身そたくましく たたしくのひよさとにうつりて 東京大空襲で、両親や兄弟は命だけは助かったものの、家屋は全焼との知らせが疎開先に届いたのは、かなり日にちがたってからでした。しかし家族全員が無事であったのもつかの間、その後のアメリカ軍の執拗な爆撃で父は爆死、広島・長崎への原爆投下でやっと戦争が終わりとなったのです。 戦後、母の手一つで育てられる事になるのですが、皇后宮御歌や母の子どもを思う気持ちに励まされ支えられて、今日まで頑張ってこれました。どうか福島県をはじめ、東北被災地のみなさま明日に希望を持ち、次の時代を担う子どもさんたちを大切に育ててあげてください。 2010年 07月 09日
岬町はこれまで行財政改革を進めてきたとは言え、まだまだ道半ば。これから本格的に取り組まねばならない問題が山積みされている。「改革は乾いた雑巾から水を絞り出すぐらいの努力が必要」と、たとえるぐらい苦しみを伴う。さてどのくらいの人達が、このことを理解しているか? 行政・議会・住民いずれの側を見渡しても、そんなに多くはいるとは思えない。
平成22年度当初予算が決まり、一般・特別・企業会計の総額122億円、うち一般会計61億円、対前年度比が3.6%と2.5%の減額は、現状の歳入状況からすれば妥当な額と思う。 しかしこれは住民に対する行政サービス低下に、つながることは明白である。 そうかと言って町債をこれ以上増やし続ければ、遠からず赤字再建団体に陥りかねない。 21年度末で94億円の町債残高を、22年度末までに90億円に減らす予算案は当然だが、このことをもっと住民に周知徹底することが大切である。いずれにしても行財政改革の痛みを乗り越えた後に、豊かで安心して暮らせる町の将来ヴィジョンを、明確に打ち出すことが必要である。 一般的な傾向として、このような委員会に有識者や専門家を招き、話を聞くことがよくあるが、セオリーどおりの話しが多く、依頼先の実情にあった現状分析は皆無に等しい。聞くほうも「言われる通り」とうなずくだけで、その後の進展は殆ど見られない。 今回は自分がこれまでに経験した改革の痛みや苦しみ、また現在活動している具体的な行動を話すことで、少しでも岬町行財政改革に役立てればと思い応募した次第です。 ここで2,3の提言をするなら・・・・・ 1)路線バス対策事業費(4,200万円)を当初目標5%削減、これは乗車率を上げることだが、実現にはそれなりの対応が必要で、例としては行革の成果を挙げた土光敏夫氏(臨調)を見習う。 2)全国的な見地で、行財政改革の成果を挙げている自治体へ、ある一定期間を定め職員を現場研修に行かせ、そこで行政・議会・ボランティア団体・住民の連携プレイをつぶさに勉強するとともに、その成果を岬町でも必ず発揮させる。 3)自身の具体的行動と将来ヴィジョンについてだが、8年前に国際交流活動講座を一年間受講し、大阪府知事の認定書を取得、現在は岬町国際交流サークル・阪南市日中友好協会・阪南市国際交流協議会・ミャンマーに学校を建てる会等で、国際交流活動を続けている。この経験を生かし、将来は岬町に多くの外国人に来てもらい、町の活性化を図る。少子化現象のつづく我国では日本人だけでなく、外国人招致が重要課題であり、多くの観光資源を有するわが町を、国際平和観光都市としてよみがえらせることが、私の将来ヴィジョンです。 2010年 04月 27日
現内閣において、首相をはじめ各閣僚の国会答弁や報道会見で、「前政権の負の遺産を引き継いでいるので」をよく耳にする。これも野党や報道陣の鋭い質問攻めをかわすための一つの手段かもしれない。
経済界ではどうか、最近ではJALの再建をはかるために、高齢であるにもかかわらず会長を引き受けたI 氏。その再生の道筋はまだまだ見えてこないが、決して「前経営陣の負の遺産が無限大だから」と、口にすることはない。 前者は政権を手中に収めたくてなったリーダーであるのに対し、後者は自ら買って出たポストでなく、多難な役目だが日本のためと、身を賭して引き受けたのである。どちらがリーダーとしての資質を備えているかは、あえて説明するまでもない。鳩山首相をはじめ、各閣僚たちの弁解がましい発言は、はなはだアンフェアーである。 自公政権で規制改革会議の議長を務めたK氏は過日の新聞紙上で、マンデラ南ア前大統領のリーダーとしての資質を高く評価し、これに対し鳩山首相に欠けているものはこれだ、と。実話をもとに描いた映画「インビクタス・負けざる者たち」を見て、はたと思ったと、解説している。 そのヘッドラインは、「政敵の遺産を生かす度量」とし、白人統治のアパルトヘイト(人種隔離)政策に終止符が打たれた後も、新政権への白人の登用もいとわない。ラグビーワールドカップ決勝戦では、白人の主将と同じ背番号のジャージーを着て、声をからす大統領の姿があった。4千万国民の心を一つにする命題を前にして、旧政権も新政権もないという思いがひしひしと伝わってくる。 「過去をすべて排除するのではなく、旧政権の知見も生かしながら自らの政治信条を貫いた」と。これに引きかえ、その度量が日本再生への責任を負う鳩山首相に感じられないと、論評している。 2010年 03月 20日
蒙古襲来の時の”神風神話”を信じて、勝つ見込みなどどこにもない中で、”本土決戦”“一億玉砕”を叫んで、戦闘を継続して行った日本。ついにはアメリカが日本人を実験台とした原爆投下を広島と長崎にした。
昭和20年2月の米英ソ三国首脳による「ヤルタ会談」で、それまで日ソ不可侵条約を結んでいたソ連が対日参戦に合意したことを知らなかったことは、同年7月の米英中三国の「ボッタム宣言」を黙殺することにもなった。ここから日本の敗戦への秒読みが始まることになる。 トルーマン大統領が7月25日、日本への原爆攻撃を指令した。それはソ連が対日宣戦を布告し、日本が降伏すれば、原爆を実戦に使用する機会がなくなること。またアメリカの軍事力を世界に誇示する機会を失うと考えたからである。 第2次世界大戦後に核兵器戦争の危機は二度あった。一度目は昭和25年に始まった朝鮮戦争、中国軍の介入により劣勢に立たされた国連軍。同最高司令官だったマッカーサーが原爆使用論を唱え、トルーマン大統領との間で意見が衝突、マッカーサーは解任された。 二度目は1954年にキューバで、民族革命家カストロが親米政権を倒し、ソ連に急接近し、キューバにミサイル基地の建設を始めた。その様子を偵察機でキャッチしたアメリカ、ケネディー大統領は臨戦態勢でミサイル搬入を阻止する構えを見せ、「キューバ危機」が生じた。だがケネディー大統領とフルシチョフ首相との間で、アメリカがキューバに侵攻しないことを条件に、ソ連はミサイルを撤去し、核戦争には至らなかった。 では現状はどうなのか?核兵器を独占してきた5大国のほか、インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮・イラクなどが、保有もしくは開発をしている。核の軍事利用と平和利用のすみ分けが判別しにくい情況下、世界的な緊張は高まるばかり。この先、核戦争の起こる可能性が高まっていくのか、それとも減少方向に進展するのか、その見通しはまだまだ見えてこない。 2010年 03月 03日
1942年4月18日昼下がり、アメリカのB25双発爆撃機16機が遥かかなたの太平洋上の空母ホーネットから出撃し、東京・名古屋・神戸などの工場地帯に銃爆撃を加えた。
この日は日本軍の真珠湾攻撃から数えて4ヶ月と10日目であり、小学校一年生だったが、東京での被爆を今でもハッキリと記憶している。 アメリカに対する宣戦布告のタイミングが、未だに微妙なズレがあるとされる日本のハワイ奇襲作戦。いずれにしろ建国以来、初めて他国からの国土じゅうりんに、米国政府・軍部・国民は騒然となり、日本への逆襲を可及的早急に決行することを企てた。それはとりもなおさず日本本土を空爆することであった。 米国内のパイロットだけでなく、ヨーロッパに派兵している優秀なパイロットも直ちに召還した。これはB25爆撃機による日本本土空爆を可能ならしめるため、短期特別訓練を行うためであった。この重爆撃機を空母から発進可能ならしめるための訓練を、先ずは地上で繰り返しくりかえし行った。加えて機体の軽量化も徹底的に図ったのである。 次の訓練は実際に空母の甲板からの発進、地上とは違い失敗すればパイロットの命に関わる。風方向・風速・潮流・空母の全速運転など、あらゆる条件を想定して、綿密な計画の下に日本爆撃を可能ならしめていったのである。 この時点では日本爆撃後、空母に引き返すだけの航続距離はB25にはなく、中国大陸へ飛び去ることで、その目的がようやく叶ったのである。だが全ての機が無事に中国の空港へたどり着いた訳ではなく、途中の燃料切れなどで墜落したものもあった。 この経験を基に航続距離の長いB29四発機をはじめ、新兵器を次々に開発し、原子爆弾の製造をもって、日本を徹底的に破壊したことは知っての通りである。アメリカの国土を侵すものは断固として許さない、9.11テロ攻撃に対する反撃作戦もまたしかり。 日本の防衛力に対する考えはどうか? 普天間基地移設は5月に結論を出すと鳩山首相は言うが、彼に近い軍事評論家は、年内でもかまわないとも発言する。だがアメリカは水平・垂直両用プロペラヘリの訓練を、一日も早く沖縄でと考えている。どちらの考えが日本、更には世界の平和と安定に寄与するのか、その答えの出るのは「駐留なき日米安保」が、現実のものとなった時かも知れない。 2010年 02月 18日
◎映画「負けざる者たち=インビクタス」から学ぶこと
「You may know nothing about Rugby. But for me-it is still Rugby.」 日本語に意訳すると「たかがラグビー、されどラグビー」と言えるのでしょうか。 これを前南アフリカのマンデラ大統領が言えば、ものすごく深みのあるフレーズになります。また「Rugby is my everything.」と南ア・ラグビーチーム代表のピナール主将が言えば、彼は正にラグビーの試合に、命をかけている決意が伺えます。 「Hatoyama and Ozawa may know nothing a lot of money. But for Japanese people -it is sill a lot of money.] は「鳩山と小沢にとっては、たかがこれくらいの金、されど日本の国民にとつては、気が遠くなるような莫大な金」と言うことになる。 「Money is our everything.」と鳩山と小沢が言ったら、金で《政権》が我が物になると、うそぶいていることになる。 湯水のように湧き出てくるダーティーで巨額の政治資金、それによって手中にした政治権力。連日テレビ・新聞で報道されるこれらのニュース。開催中の国会では、日本の将来像を議論することを二の次にして、政治資金問題に大切な時間を費やすありさま。 お金は持つ人の心がけによって、その値打ちも大きく変わるもの。汗水流して得たお金はたとえ僅かでも、大きなダイヤモンドのように光り輝く。反対に労せずして儲けた金は人がけつまずいて、怪我をするようなタダ同然の石ころ。一日も早く日本の将来を担う清廉潔白なリーダーが出てくることを、鶴首の思いで待ち望むとろです。 2010年 02月 04日
◎インビクタス=負けざる者たち
この映画は、ネルソン・マンデラ元南ア大統領を描いた作品。27年もの投獄を経て初の黒人大統領に選ばれ、アパルトヘイト政策を乗り越えて現在の南アの礎を築いた人です。 就任翌年の1995年、南アで開かれたラグビーワールドカップの実話を基にした物語です。 映画ではマンデラ氏とラグビー南ア代表チーム主将フランソワーの2人のリーダーシップが描かれています。いちばん感動したのは、マンデラ氏がそれまで自分たちを迫害していた相手を赦すことで国を一つにまとめていく姿です。マンデラ氏自身がその手本を示すことで次第に周囲を感化していく。 リーダーが率先垂範することの大切さは、どんな分野にも共通するでしょう。日本や世界で指導者のあり方が厳しく問い直されている今だからこそ、考えさせられる映画です。 もう一つ、この映画の見どころは、ラグビーというスポーツを題材にワールドカップ優勝という共通の目標に向かって高まっていくチームの結束力を描いているところです。 映画ではマンデラ氏が大統領執務室にピナール主将を呼んで、ワールドカップ優勝へ向けて使命感を喚起する場面があります。 相手のモチベーションを高めて、持っている力以上の力を引き出すのはリーダーの重要な役割です。そのあたりのやり方やメッセージの発信が、マンデラ氏はとても巧みに見えます。おそらく投獄されていた27年の間、自分の中で解放後のグランドデザインを描き続けていたのだと思います。長い年月を積み重ねて思考した結果の行動だったという気がします。(以上の文の多くは日経新聞の広告欄から転載しました)。 日本の政治家たちのリーダーシップ欠如が問われる昨今、彼らがこの映画とラグビー精神から学ぶべきことは大であると思います。 ◎Hatoyama and Ozawa may know nothing about rugby. But for us - it is still rugby. 2010年 01月 28日
7年前から地元の小学校で総合学習の一環として、「世界の貧しい子どもたちの就学率・死亡率」、「日本の食料自給率・残飯問題」などの話を生徒たちにしている。こんなこともあって忘年会やその他の宴会に出た時は、運ばれてきた料理のうちの1~2種類は持ち帰りできるように、直ぐにパックしてもらうことにしている。宴会が始まり飲食が進みだすと、どうしても出されたモノ全てに箸をつけてしまい、終わってみるとかなりの食べ残しが出るのは常のこと。先ずは子どもたちへの教えを自らが実行することにしている。それにメタボリック解消にも多少の効果がある。
政府の各閣僚や各党幹部などが直面する政治、政局問題を話し合うために、日・中・洋の有名料理店で、会合を持ったとの報道を良く見かける。人間誰しも空腹時になると神経がイラつき、集中力が減退するもので、食事をしながらの議論・意見交換も悪くはない。まして一国の要人ともなれば、身の安全確保のためには並みの料理店でと言うわけにはいくまい。だが話の内容たるや「有言烏合の衆」と同程度と思われることの方が多い。 庶民には高嶺の花の料亭で召し上がる高級料理に比べると、いかにも貧弱でこれが日本の政治を論ずる人達の会合なのかと、首を傾げたくなるようなことが度々ある。 オイルクライシス後の経済安定化に尽力した、土光敏夫経団連会長の姿が思い出される。 第2次臨時行政調査会の会長として財政再建や国鉄など三公社民営化の先頭に立った人。東芝やIHIの社長としてその経営ぶりは、今日でも高く評価される人だが、生活は至って質素で、メザシに野菜、味噌汁と玄米だけ。「メザシの土光さん」が、行革の流れを変え、この人の言うことならと国民の支持が一気に高まったとされる。 80歳を超えても迎えの車には乗らず、バスや電車で通勤するという。その暮らしぶりを今の政治家や官僚達は見習ってもらいたいものだ。 議員方の中には手づくり弁当、コンビニ弁当、出前そばなど、我われ庶民と同じものを食べている人もいると言われるかもしれない。だがこれとてその約50%は輸入食品と考えてよい。「食糧安全保障」の問題は将来の日本アキレス腱とも言える。議席の更なる増加や奪回にエネルギーを費やすのも結構だが、日本の「食糧自給率アップ政策」を、場所がどこであろうと、食べ物を口に運ぶたびに考えるべきである。 2009年 12月 11日
米軍普天間基地(沖縄宜野湾市)の移設問題の長期化を懸念する声が広がってきた。新聞のヘッドラインにもしばしば取り上げられる「オバマ・鳩山会談見通し立たず」・「沖縄県議会は{県外}圧力」・「在日米軍再編に大きな影響」など。焦点の定まらない首相の迷走は、関係者を苛立たせるばかりかイデオロギー的な反基地闘争をも刺激し、結果的に現状固定化になるとも解説している。
戦後アメリカの統治下に置かれた沖縄は、1972年日本への復帰を果たした。しかしこの返還交渉の過程で、日米双方の利害関係の対立は想像以上のものだったようだ。当時、日本からアメリカへの主力輸出品は繊維製品、先方はこれに対する輸入量制限と関税率アップを要求。このことは繊維産業界にとって、死活にかかわる難題であった。 その時の佐藤政権は沖縄返還を実現するために、民間産業に過大な負担を押し付けたとも言われている。その後はアメリカの外圧や第一次オイルクライシスにも耐えて、各企業は社内の合理化を更に図り、コストダウンや新製品の開発に拍車をかけていった。結果、今日の淡水化装置用フィルター、航空機用炭素繊維など数多くの先端技術品を生み出したのである。沖縄返還を実現した元佐藤首相のノーベル平和賞もエピソードとしてだが、民間産業界あってのことだとも言われている。 鳩山首相の優柔不断さが「結果的に現状固定化になる」とのメディアの見解も、あながち的外れでもない。現時点での沖縄県民の負担軽減は無理かもしれないが、将来的にはこの負担解決の道筋が立てられるはずである。国民のための「友愛政治」を標榜するなら、外務大臣や防衛大臣を時間稼ぎに走らせるのではなく、政治の最高責任者自らが苦渋の決断を早期にすべきである。
< 前のページ 次のページ >
|

