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今の自分の気持ち
by tak-newcentury21 カテゴリ
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2011年 11月 24日
昭和3年生まれの兄(昭和25年死去)の小学校同級生から最近届いた手紙の一部を紹介することにより、この年代の人達が、戦時中の苦労を乗り越えいかに戦後の日本復興のパワーとなっていったのか、その一旦を伺い知ることができます。ちなみにカシオ計算機の樫尾和雄社長もこの小学校の同期生です。(以下その手紙の一部を抜粋) 私は戦中派、国家主義の時代の教育を受け、現在もその延長線上にあります。本当のところ学校の教室で学んだのは、都立航空工業学校3年生の一学期ぐらいまでです。学校の校庭や荒川の河川敷で『さつま芋・じゃが芋』の食糧生産。近くの軍事工場や昭和飛行機の生産現場で働き、時には工員寮に合宿して、平日10時間、交代制の徹夜勤務もあり、戦争に勝つために一生懸命はたらきました。 海軍の双発輸送機を監査官の将校と技術者の指導の下で、機体の組み立て、リベット打ち、治具の製作、ベニヤ板への原寸図かき等、15,6歳の中学生と女学生が蟻のようにむらがって、手作業でプロペラ機の機体(ジュラルミン板)を組み上げ、それが毎週一度工場内の滑走路から戦場へ飛んでいくのです。ちょっと信じられない光景です。 昭和20年3月に5年制の学校が4年の短縮卒業(兄も早稲田実業を4年で卒業)となり、5年生・4年生の二年度の生徒が同時に学校を出たのです。昭和19年12月に江田島の兵学校予科生の最終試験に行く途中、清水駅あたりで、東海大地震に遭遇したのですが、列車は奇跡的にも転覆しませんでした。 前回の予備試験に引き続き、再度身体検査・身上調査・学科試験が行われ、数日江田島の生活をした後、不合格となりました。呉軍港でははじめてレイテ出撃前の戦艦大和を間じかに見ました。小型の海軍舟艇で大和の浮かぶ海上から見上げる巨大戦艦は光り輝いて見えました。 80歳を過ぎても当時のことは鮮明に覚えています。学生ながら、何れは米軍と戦って死ぬものと覚悟していました。江田島から戻って直ぐに山科工業専門学校の入学試験を受け、幸いにも合格。しかし教室での授業は殆どなく、甲府市内の軍事工場で海軍の99式艦上爆撃機の脚を作る会社に動員となりました。その後間もなく8月15日の終戦を迎えたのです。 < 前のページ次のページ >
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